映画を百倍楽しむための豆知識
江戸時代の食事情を知れば映画がもっと楽しめます
江戸後期、「食の都」は上方から江戸へ
「つる家」で澪が料理を作り始めたのは文化9年(1812年)、江戸の料理文化が爛熟期を迎えた時代です。しかし、故郷の大坂でおいしいといわれた料理が江戸では通用せず、澪はスランプに陥ります。上方と江戸ではどんなふうに味覚や調理法が異なったのか、それを知るため江戸の食の歴史をたどってみましょう。
江戸時代初期、約15万人だったといわれる住民の多くは上方や東海地方からの移住者でした。おのずと江戸の食文化も上方の影響が強く、薄口しょうゆやみそ、酒、菓子など、上方から入ってくる「下りもの」が重宝され、江戸周辺の産物は「下らないもの」と揶揄されたほどでした。しかし埋め立てが進んで城下町が広がり、人口が増え、経済力がつき、関東しょうゆの品質・生産力が上がるにつれ、江戸独自の「濃口」な味覚が醸成されていきます。
1700年代初めに百万人を超えていたという爆発的な人口増加は、参勤交代の開始で武士や商人・職人たちが流入し、また火災の頻発で大工や左官などが全国から多数移入したことなどによるものでした。武士も労働者もエネルギー源となる米飯を大量に食べるため、濃い味付けのおかずを好むように味覚が変化。やがて関東産の濃口しょうゆが薄口しょうゆを駆逐、みりんや砂糖が調味料として使われるようになり、うなぎの蒲焼きなど濃厚な江戸の味が完成されていきました。
こうして「下りもの」を重宝していた江戸の味覚、調理法は、約百年の時を経て独自のものへと変化。澪はそんな時代に生きた料理人でした。
何でもランキング「見立番付」が大流行
劇中、澪の「とろとろ茶碗蒸し」が「料理番付」の関脇に載ったと喜ぶシーンが出てきます。料理番付とは、大相撲の力士番付をまねて作られたランキング一覧表「見立番付」のひとつで、1800年代に入ってから盛んに作られるようになった情報紙のこと。「医者」「手習い所の師匠」「銀山鉱夫の出銀高」「商人の稼ぎ高」「職人」「産物」「美女」など、実にさまざまなものが取り上げられランク付けされました。
江戸では移入人口の多くが独身男性だったため、彼らの胃袋を手早く満たす屋台など、外食産業が発展。1700年代半ば過ぎに多くの料理屋が誕生し、1800年代に入ると社交の場ともなる高級料理店が登場しました。評判の料理店や献立などを紹介する見立番付が次々と出され、名高い料理人のいる店に足を運ぶ風潮が生まれたといいます。
澪の「とろとろ茶碗蒸し」を上位に位置づけた見立番付は、料理の評価の高さを示すとともに、集客効果に大きく貢献したことでしょう。
水と嗜好の違いから西は昆布、東はかつお節
長く肉食が禁じられていた日本では、うま味をだしに求め、だしを重視する食文化が育まれました。昆布だしは鎌倉時代、寺院の精進料理において使われ始めたとされ、やがて武家の本膳料理として定着します。1600年代末に西廻り航路の海運が発達すると、蝦夷地(北海道)から大量の昆布が大坂へと運ばれ、以後、昆布だしが上方の食を支えました。映画の中で、おぼろ昆布で包んだおにぎりが「あさひ太夫のお弁当」に入っていましたが、おぼろ昆布は大坂で盛んに作られた加工昆布の一つです。
一方、かつお節の起源は室町時代とされ、大規模に作られるようになるのは江戸後期、漁法や製法が進化してからでした。江戸でかつおだしが主流となったのは、濃いだしを取るためだったといわれています。江戸の水は上方に比べて硬度が高いため、昆布のうま味を引き出しにくいからです。澪が合わせだしを完成させるのに苦労した理由は、そんなところにもあったかもしれません。